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戦時中の”記憶”を冊子に・旧越ヶ谷高女卒業生ら

 コロナ禍の不自由と恐怖は、まるで戦時中のよう――。
そんな思いから、越谷市の旧制・県立越ヶ谷高等女学校(現在の県立越ヶ谷高校)の卒業生たちが、このほど、米寿を迎えたのを機に、「戦時中の記憶を残そう」と当時の学校や生活をつづった冊子「あの頃の私たち~2021年 米寿を迎えて」(A4判、34㌻)をまとめた。松伏町田中の主婦、石川弥恵子さん(89)ら10人の同級生たちは、空襲の恐怖におびえながら、まともな授業もなく、勤労奉仕などに明け暮れた青春の日々を赤裸々に書きとめている。「忌まわしい体験を二度と繰り返したくない」との願いを込めて。

 冊子作成を女学校の同級生らに呼びかけた石川さんは「見えないコロナへの恐怖から戦時中を思い出した」という。
 石川さんは1945年4月、12歳で同高女に入学。草加市から東武電車で通った。登下校時には、米軍機の焼夷弾投下の恐怖にさらされた。「そうした記憶を残そう」と一昨年10月、石川さんが同級生10人に声をかけたところ、米寿を迎える全員が賛成してくれた。記憶をよみがえらせてくれたのは、全員が毎日付けていた各自の日誌。皆、大切に保存していた。
 同級生らは日誌や記憶を頼りに、戦時中の思い出を文章にまとめて寄せた。それらを石川さんが約1年をかけて編集し、昨年12月に100部完成させた。当時の写真も掲載され、「漢字テストの答案」や「校舎をバックにした集合写真」など貴重なものもある。
 寄せられた「記憶」には戦時中の恐怖や不自由さが、生々しく表現されていた。
 「空が真っ赤に染まった。東京は一夜にして焼け野原となり、越谷に疎開した。3歳の弟は赤い夕陽を見ると泣き出した」
 「学校での服装は手作りのセーラー服にもんぺ。靴もばらばら。防空頭巾を肩から下げていた」
 「上級生は軍事工場となった校舎で軍靴を製造し、私たちも軍帽の穴かがりをしていた」
 「入学後は近隣農家での勤労奉仕。田植えや田の草取りなどの作業をした。昼食のお米のおにぎりが、おいしくて今でも忘れられない」。
 まともな授業はほとんどなく、空襲警報が発令されると、近くの久伊豆神社に避難し、解除までの数時間じっと待つ日々。時間割通りに授業ができて、音楽会や体育祭、修学旅行など楽しい思い出に変わったのは終戦後だった。
 石川さんは女学校卒業後、英語の専門学校を経て、海上保安庁職員となり、女学校時代の部活のバスケットボールが縁で知り合った夫、仁(まさし)さんは2代目の松伏町長となった(2011年6月、84歳で死去)。
 「毎日、書かされていた日誌で記憶がよみがえった。コロナウイルスは私たちの生活を一変させ、戦時中を思い起こした」という石川さんは、「戦争という忌まわしい経験を踏まえ、二度と過ちを繰り返さないようにと書き残しました」と話している。