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戦時下、越谷にSL工場・市郷土研究会会員2人が調査

2019.10.28(越谷市)
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 戦前、越谷市に蒸気機関車工場があり、専用鉄道もあったことを、同市のNPO法人「越谷市郷土研究会」のメンバー2人がこのほど、明らかにした。当時は軍需工場とし、戦後もしばらく稼働していた。一部市民の証言に興味を持った同研究会員が、戦争直後の航空写真を手に入れ、国立国会図書館に足を運ぶなど、ほぼ10年にわたる地道な調査を続け、あまり知られていない事実を明らかにした。戦前、戦後史の中で埋もれてきた“秘史”で、元工場勤務者の貴重な証言も得ており、「越谷市史」の空白を埋めるものとして注目されそうだ。

 今回、存在が明らかになったのは、1941年(昭和16年)当時、旧越ヶ谷町大作(現在、越谷市赤山町)にあった軍需工場「熊澤機機械」。

 同研究会の常任理事、秦野秀明さん(52)(接骨院院長)は10年前、同研究会会報で、「戦前、越谷駅から今の税務署まで線路があった。近くに工場があり、そこに線路が引かれていた」との市民の証言を読み、鉄道ファンでもあって独自に調べ始めた。

 東武鉄道本社を訪ねても、越谷の専用鉄道(引き込み線)の資料や記録はなかった。このため秦野さんは、国土地理院で1947年(昭和22年)に撮影された、越谷駅周辺の「空中写真」を手に入れた。その写真には、大きな工場が駅西側に広がり、線路跡らしい道路を確認できた。「専用鉄道」は越谷駅西口から西に向かい、大きくカーブして工場まで約800b伸びていた。

 この工場とは――。秦野さんと同じく同研究会メンバーの坂本誠一郎さん(78)は、工場は蒸気機関車などを製造していた「熊澤機械」であることを突き止め、国立国会図書館に通って、熊澤機械の製品カタログを発見した。それにより主に小型蒸気機関車を作っていたことがわかった。

 坂本さんによると、「熊澤機械」は1935年(昭和10年)に東京市京橋区(当時)に創業。41年(同16年)に旧越ヶ谷町に移転し、工場、事務所のほか社宅もあった。空中写真からもその跡が確認できる。戦時中は「軍需工場」として、当時の越ヶ谷国民学校などの生徒たちが「学徒動員」された記録もあった。従業員は220人ほどで、51年(同26年)まで稼働していたとの資料が残っていた。

 坂本さんは「これまで知られなかった軍需工場の存在や学徒動員の事実がわかった。終戦がもう少し遅れていれば、広大な工場と生産能力から見て、越谷が空襲に遭っていたかも知れない」と話す。

 この調査結果に「工場や納品用の線路の存在が裏付けられ、興奮した」という秦野さんをさらに驚かせたのは、知人で患者でもある、同市大沢の中島光代さん(92)が「熊澤機械」に勤務していたこと。

 中島さんは44年(同19年)3月から約1年間、同工場の「調査課」に勤務しており、「当時、たくさんの人が工場で働いていた。

広い敷地という印象で、毎日、自転車で通った。若い頃の思い出」と証言している。

 今回の調査結果は、同研究会のホームページで発表されている。
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