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長崎での被爆体験を語る・「平和の日」講演会

2015.9.28(草加市)
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 草加市立中央図書館4階、多目的ホールで「平和の日講演会」(主催・平和ネットワーク草加、草加市)が9月5日に行われた。“原爆被爆者をめぐる現状と証言〜被爆者の声をうけつぐ〜”と銘打った今回の講演では、日本原水爆被害者団体協議会事務局長であり、埼玉県原爆被爆者協議会(しらさぎ会)の田中熙巳会長(83)や原爆被害の語り部である宮本一さん(88)、被爆者の体験を聞き書きしている青木より子さん(66)らが招かれた。
 田中会長は1945年8月9日、長崎で被爆した。父親が亡くなり、母子家庭だったため、叔母を頼って長崎に来た。当時13歳。学校で警戒警報があり帰宅。夏の暑い日だったので、家の2階でパンツ一丁で本を読んでいた。その時に空襲警報が聞こえた。目の前が真っ白になり、慌てて階段を駆け下りて目と耳を塞いだ瞬間、気絶。爆風が貫けていった。爆心地より半径3・2?の場所だった。
 「祖母が爆心地に居たので母親と探しに行ったが、道中は焼死体と骨が転がっていた。助けてもらえない人も多く、口々に水を下さいと力も無く必死に哀願していた。鉄骨は溶け、焼ける物は全て焼けて何も無くなっていた。街では建物など目印が亡くなると方向感覚が全くと言っていいほど無くなる。幸い、叔母の1人を発見出来たものの、大やけどを負っており数時間後には亡くなった。この叔母の遺体に火を付け火葬し、もう1人の叔母を探しに行ったが、人の姿のまま骨になっていたのを見た時は胸に来る物があり、号泣した」と当時を振り返った。
 「今はしらさぎ会の会員も80歳に近く、表現できる人が少なくなっている。親・親戚の人の話を聞き新しく歴史を伝える、お手伝い・サポートをして欲しい」と、被爆した当時の状況、投下された直後よりも、その後が酷かった現実、そして原爆体験者の数が少なくなりつつある現状を伝えて、深々と頭を下げた。
 宮本さんも同様に自分が被爆した当時の状況を「不安と恐怖に怯えながら防空壕に避難した。白い砂塵で辺りは雪が降ったようになっていた。防空壕の中には顔半分が無い人や、服が溶けて皮膚と一体化している人もいた。どうしてこうなったのか恐怖のため声が出なかった」と当時の状況を語り、青木さんは被爆者である女性の手紙(被爆者・当時4歳11か月)を朗読した。
 平和ネットワーク草加の堀美紀子委員長は「日本は世界で唯一の被爆国でありながらも、貴重な自らの被爆体験を語れる人が少なくなった。委員の中にも被爆者がいるので、語り部を育成し、後世に“原爆の恐ろしさと平和への願い”を残そうとする動きを続けて行きたい」と話した。

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