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江戸期の講、今に伝える・浅間神社「冨士行」文化財に

2014.3.3(草加市)
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 富士山が昨年6月、ユネスコの世界文化遺産に登録されたのをきっかけに、草加市教育委員会は、1月24日付で、瀬崎浅間神社(瀬崎三丁目)の「瀬崎の冨士行及び富士塚」を市民俗文化財に指定した。昨年12月の市文化財保護審議会の答申を受け指定したもので、同教育委員会は「各地で富士講、富士塚が減少している中、往時に近い形で続けられているものは稀な存在、瀬崎の冨士行は全国的にも大変貴重」という。

 富士山をご神体とする浅間神社を信仰する人々によって組織された富士講は、江戸時代に「江戸八百八講」と呼ばれるほど庶民の間で爆発的に広がり、富士登山者が増加した。講は30人程度で組織され講員が増えるとさらに講が枝分かれしていった。かつて草加地域にも30を超える富士講があったという。
 旧瀬崎村の富士講(代表=関根喜代寿・先達)は、昔ながらの「冨士行」と表記し、現存する古い祭祀用具などに天保4年(1833)の銘があり、瀬崎浅間神社のご神体には台座に宝暦14年(1764)に、浅間大菩薩(コノハナサクヤヒメノミコトのこと)が富士山に腰かけている姿の現在の富士講形式のものに作り替えられたことが墨書されていることから、このときにすでに講が存在していたと推測されている。毎年元旦と富士山山開きの7月1日に同神社で「御伝(おつたえ)」と呼ばれる行事を今も当時と変わらぬやり方で伝承、言葉の区切りごとに、鈴(れい)を鳴らしながら、木遣り調の御神歌、御神語、御文句などを唱える。
 奇数月の年6回(現在は1、7月はなし)は講員の自宅を「宿」として、その家の災難除け、子孫繁栄などの祈願が持ち回りで行われる。毎年8月17日は、江戸期から明治中期ごろまで、講の代表数人が講員に託された願いを代参し、山頂で浅間大菩薩に祈願する富士参拝が行われてきた。中期以降は希望者全員が参加するようになったが、戦後は3年に1度になった。12月15日には、先達の家で「皆済(かいさい)」と呼ばれる行事で1年を締めくくる。

 市文化財保護審議会副委員長で、瀬崎の富士講の講員でもある、浅古倉政さん(74)は「富士講はいくつもの派閥があり、瀬崎は丸瀧講の流れで東京・駒込の冨士神社の講がルーツ。明治の神仏分離令で祭祀のやり方が変わってしまった富士講も多い中、家の構造や生活様式の変化などで近年、簡略、縮小化された部分もあるが、瀬崎は江戸時代からのやり方を伝承している近隣でも数少ない講。後世に伝えていってほしい」と話している。
 また、江戸時代の富士山は女人禁制で、また交通の不便さ、費用面から、女性や高齢者など誰でも富士山参拝が近くでできるようにと、富士山に見立てた人工の山や塚を築いた。これが各地の神社などに残る「富士塚」。瀬崎浅間神社の富士塚は、大正5年(1916)8月に完成、富士山の溶岩、土を一部使い造成されたもので高さ4b、横幅10b、奥行き8・6b。「富士行」で本物の富士山に登った講員の名前を刻んだ石碑が数基建立されている。
 浅古さんは「今は崩れてわからないが、昭和40年ごろまでは、左側に男坂、右側にゆるやかな女坂があり、裏側には胎内を模した洞窟のようなものもあった。以前の形に復元したいという神社氏子、富士講のみなさんの思いも強く、検討を進めている」と話している。

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