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「草加松原」が国の名勝に・日光街道沿い1・5`

2013.11.25(草加市)
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 国の文化審議会は15日、草加市の松並木「草加松原」を俳聖・松尾芭蕉の「おくのほそ道風景地」のひとつとして、国の名勝に指定するよう、文部科学大臣に答申した。「川に沿って線上に延びる並木道の風景は壮観。今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える」と評価された。県内の国の名勝指定は、「長瀞」、「三波石峡」に次いで3件目で56年ぶり。同風景地は、草加松原を起点に今回、10県13か所が答申され、近く指定される。
 「草加松原」は、旧日光街道の綾瀬川沿いに1・5`にわたり現在634本のクロマツが立ち並び、江戸時代には「千本松原」と呼ばれた名所。旧家の古文書では1792年(寛政4年)に、「松の若木1230本を植えた」と初めて文献に登場するが、伝承では1630年(寛永7年)の綾瀬川改修時に、松が植えられたとされる。1689年(元禄2)に松尾芭蕉が草加を通り、「おくのほそ道」で「その日やうやう草加といふ宿にたどり着けにけり」と記している。
 昭和8年当時の国道拡幅工事による西側の松並木伐採計画や、昭和40年代の排ガスや工場のばい煙による枯れ死などで一時は60本にまで減少するなど何度か消滅の危機にさらされてきたが、そのたび住民運動などで補植・保全がされてきた。82年には、県道上り線を移設し遊歩道化され、建設省(当時)の「日本の道百選」にも選定された。
 市や関係者は、今回の指定で草加の観光に弾みがつくと喜んでいる。田中和明・草加市長は、「大変名誉なこと。市民団体が長年にわたり補植・保全などを担ってこられた。市民力の集大成の結果で、市の誇りとして後世に伝え残すべき財産」とコメントを発表した。


 「草加松原」は、これまでに二度の消滅の危機があったが、そのたび、住民運動によって守られてきた。一度目は、現在、遊歩道となっている部分に国道4号の上下線が走っていた1933年(昭和8)、国道拡幅工事で西側の松並木の伐採計画が浮上したが、住民活動により守られた。このとき、下り線が分離された。
 二度目の危機は、昭和40年代の高度成長期、車の排ガスや振動、工場のばい煙などの影響で、松が枯れ死し、1971年(昭和46)には194本に減少、そのうち古木は60本にまで激減した。この現状を憂い、草加青年会議所が74年(昭和49)ごろ補植を始めたことがきっかけとなり、保存運動の機運が盛り上がった。
 1976年に、市民有志による「草加松並木保存会」が結成され、1000人を超える会員が集まり、浄財で松の補植や害虫駆除などを続け、77年(昭和52)には326本にまで回復。当初は国の補植許可が得られない多難もあったが、活動の熱意は行政を動かし、85年(昭和60)には、現在の草加松原遊歩道の整備などにつながった。その後、草加松原は市の管理となり、市などで補植を続け、現在、634本になった。
 初代松並木保存会会長で元市長の小澤博さん(81)は「市民の心のよりどころであった、松並木が枯れていく現状をなんとかしたかった。当時の建設省からは、綾瀬川沿いの補植は洪水時の危険から許可してもらえず、勝手に会員がゲリラ戦法で植え、あとでたっぷり絞られました。のちに、草加松原は建設省の日本の道百選に選ばれ、保存会も表彰されるなど隔世の感があります。国の名勝にこのたびなることは、みんなの努力が結実した結果でとてもうれしい」と話していた。
 現在、「草加松原」には松尾芭蕉像や文学碑、百代橋、矢立橋といった「おくのほそ道」関連が設置され、江戸期の風情を漂わせ、散策などの市民憩いの都市公園「草加松原公園」としても親しまれている。
 市立歴史民俗資料館職員で草加松原を見て育ったという中島清治さん(66)は「江戸時代の五街道の中でも、数本残っている例はあるが、宿場の近くにこれだけの規模の松並木が残っているのは草加だけ、とても貴重な歴史遺産」と強調する。資料館では近く、市立図書館で古い写真などで「草加松原の歴史」も展示する。

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