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大川平八郎の数奇な人生映画に・草加出身のハリウッドスター

2012.1.23(草加市)
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 埼玉県が企画制作したドキュメンタリー映画「草加が生んだハリウッド俳優 大川平八郎の数奇な人生〜日本とアメリカにかかる橋〜」がこのほど完成した。2月5日午後2時から川口市上青木3のSKIPシティ・彩の国ビジュアルプラザ4階映像ホールで完成記念特別上映会が開催される。一昨年の8月に大川平八郎の遺族から同資料館に寄贈された遺品から新たな事実が発見され、これらno 資料をもとに構成し制作、草加の旧家出身の平八郎の紆余曲折を経た映画人生にスポットをあてた内容となっている。

 戦前、ハリウッドで活躍した日本人俳優といえば早川雪舟などの名前が挙がるが、同時代に生きた大川平八郎の存在は資料も乏しくあまり知られていなかった。一昨年の8月に草加市立歴史民俗資料館で「懐かしの映画展」が開催され、平八郎の弟の長男と親交のある同資料館嘱託・中島清治さん(64)を通じ、神奈川県川崎市に在住の平八郎の妻、春子さん(当時100歳、故人)と長男、長女が訪れ、生前の愛用品や映画スチール写真、戦前の出演映画をコピーしたDVD15本などが同資料館に寄贈された。
 寄贈された雑誌のスクラップなどを精査するうち、戦前の雑誌「映画ファン」(1937年2月号)などに載ったいくつかのエッセイから、俳優となったきっかけやハリウッド映画出演のきっかけなどいくつかの新たな事実が浮かび上がった。県内の記録映像制作のため古い写真や映像を探していた、彩の国ビジュアルプラザを埼玉県から委託運営する株式会社デジタルSKIPステーションが着目、県産業労働部の「デジタルアーカイブ事業」の一環としてドキュメンタリー映画制作が提案され実現した。
 新たにわかったのは、平八郎は、東京に嫁いでいた年の離れた姉、涛子(なみこ)を頼り上京、学費などの面倒を見てもらいながら郁文館中学校に通うも自主退学。実業家をめざし、姉の援助を受けて大正12年(1923)に単身渡米したこと。皿洗いのアルバイトをしながらフロリダ大学の経済学科に通ったが、折りしも日本で関東大震災が発生。地元の新聞に、母国が大変なときに帰国しない平八郎を批判する記事が掲載され仕事も失った。追われるようにニューヨークに渡り、ペットショップで働くうちにパラマウント映画が映画学校を作ることを知り実業家の夢をあきらめ一転、俳優への道を探った。
 23歳のとき、サイレント映画「空中大サーカス」のスタントマン役をこなしハワード・ホークス監督に認められ、その後「悪魔のなげき」「地軸を回す力」などにヘンリー大川の名で5本の映画に出演したが突如帰国。当初は、父、十三代(とみよ)の他界がきっかけとされていたが、姉危篤の報により帰国したことが事実だった。28歳で帰国後は、PCL(東宝の前身)の看板俳優として活躍、甘いマスクと愛嬌の良さで人気があった。49歳のとき、アカデミー賞などに輝いたデイビッド・リーン監督「戦場にかける橋」(1954年)に日本人大尉役で出演し、助監督として日米英のスタッフのかけはしとなり尽力した。主役のウイリアム・ホールデンも平八郎を慕い、成城の自宅などにも訪れたという。

 草加市立歴史民俗資料館嘱託の中島清治さん(64)は「草加宿の開拓者の一人、打出大川家は大正期にはかつての勢いはなくなっていたようで、平八郎はお家再興の大志を抱いて渡米し、実業家の夢は絶たれたが映画俳優として自力で道を開いた。魅力ある人物が草加から輩出されたことをこの映画で多くの人に知ってもらえれば」と期待する。
 完成した35分のドキュメンタリー映像は、出演映画のワンシーンや写真、平八郎の長男、映画研究者などのインタービューなどで構成した。委託制作した株式会社デジタルSKIPステーションでは「彩の国ビジュアルプラザで永久保存され、今後は一般に無料公開していく。草加をはじめ県内各地で巡回上映もしていきたい」という。2月5日の上映会後は、俳優・津川雅彦氏、柴田平三郎獨協大学教授による、日本映画の魅力を語るトークショーもある。参加は、電話またはファックスで事前申し込みが必要。定員は申し込み順300人。
 <問い合わせ>デジタルSKIPステーションTEL048・260・7777。FAX048・265・2628。


 大川平八郎=明治38年(1905)9月9日、現在の住吉1丁目で草加宿開宿に貢献したとされる大川図書直系(打出大川家)の3男として生まれる。草加尋常小学校、東京本郷の郁文館中学校を中退後、大正12年(1923)米国に渡り、ニューヨークのハリウッド・コロンビア映画が募集した俳優学校第1期生となった。同期にゲーリークーパーらがいた。卒業後、ハリウッド映画に入りヘンリー大川の芸名で活躍の途上に帰国。帰国後は東宝の前身PCLに入社。日本映画草創期の映画俳優として活躍、米国のマスコミにも取り上げられ話題となった日本初のミュージカル映画「ほろ酔い人生」はじめ多くの話題作に出演。戦時中は軍属としてフィリピンに応召され、敗戦時陸軍大将・山下奉文が投降する際に通訳も務めた。戦後は「戦場にかける橋」(1954年)に日本軍大尉役で出演するとともに助監督も務め、日米英のスタッフをつなぐ重要な役割を果たした。戦前戦後を通じ約35年間の俳優生活でアメリカ映画5本、邦画71本に出演した。1971年5月、65歳で永眠。
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