トップニュース

草加宿の実態解明なるか・中大川家の古文書見つかる

2012.1.19(草加市)
ニュース写真
 江戸期の草加宿成立に関わる名主の一人で問屋場や初期の本陣も務めた、中大川家由来を主とした大量の古文書が、熊谷市在住の郷土史家・佐藤繁さん(70)により群馬県高崎市内の古本屋で発見された。草加市立歴史民俗資料館嘱託の中島清治さん(64)と交流があったため一報があり、このほど同資料館に寄贈された。草加宿発展の歴史をひもとく資料として関係者は期待、これから解読を進めていくという。佐藤さんは「草加宿の未解明部分の歴史を埋める一級史料がこの中から出てくればいいですね。今回発見された史料がお役に立てばうれしい」と今回の寄贈について話している。
 古文書は、一巻きずつ紐でしばられ200点以上あり、みかん箱4箱分。借金の証文といった類のものが多いという。これまで、草加宿に関しては政治的な面での歴史はわかっていたが、経済的側面からの資料が乏しく、日光道中沿いの旧家などにも江戸期に2度の大火に見舞われたためかほとんど残っていない。中島さんは「江戸期の草加宿が経済的にどのように発展していったか、金融や流通の面から知る手がかりになるかも知れない貴重な資料。草加宿に関する資料があまりないため、まちの宝として残しておくべき資料が発見された」と喜ぶ。
 草加宿は、幕府の伝馬宿制度(駅ごとに人・馬を換えて旅人や荷物を送る駅伝制度)の命により谷古宇村、南草加村、宿篠葉村、吉笹原村など8か村の名主が集まり、形成したとされる。「草加宿由来」(打出大川家文書)などによると、慶長元年(1596)以来、大川図書の差配により近隣村々の協力で街道整備が進められ、同11年(1606)に完成したとある。寛永7年(1630)には日光道中第2の宿駅に指定された。
 宿場経営は、図書直系でのち本陣も務める篠葉村の打出大川家、日光道中に接していた谷古宇村の中大川家、南草加村の下大川家が中心となっていったという。宿場中央には、問屋場が置かれ、伝馬継ぎたての課役を請け負った。最新の研究では、当初は、複数の有力者が交替で務めたが、元禄8年(1695)の検地以降、打出大川、中大川の2家が交互に務め、世襲したとされる。近隣市の史料から中大川家が寛保4年(1744)まで、打出大川家が宝暦8年(1758)まで務めた、ことが判明している。
 宿の円滑な機能整備のため各村共同で統一的な町割りによる宿場町が作られた。元禄の検地帳によると、南から北へ壱丁目から六丁目まで6区分(現在の中央、高砂、住吉、神明地区)され、伝馬役百姓は街道に面して間口6間(約11b)以上の屋敷を所持して、伝馬役・人足役が課せられていた。これらは株立てて構成され、江戸中期には102軒半あった。これが後に旅籠や料理屋などの商売につながり、現在の商店街形成につながる原点になっていった。株を持つことで宿政に参画することが出来たため、のちに売買の対象になり、一人で複数の株を所持し手広く商売をする者が現れたり、半分の株になったりする者など細分化もされていった。
 草加市文化財保護審議会の佐藤久夫会長(83)は「今回寄贈された資料により、草加宿発展の中心であった3大川家が明治以降も続いた財政的背景や、資料が乏しかった草加宿の経済・流通史が解明できるかもしれない」と期待する。
 草加宿関連では今年春には、日光道中沿いの草加宿の中心部にあった大名家や公家などが参勤交代などで宿として利用された「大川本陣・清水本陣跡石碑」の建立も現在、市民まちづくり団体が募金を呼びかけで進んでいる。

>戻る