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93歳の枝窪さん、「自分史」を本に・看護師、助産師の思い出綴る

2013.2.4(越谷市)
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 大正、昭和、平成と激動の時代を生き、看護師・助産師として3000人を超える赤ちゃんを、世に送り出す手助けをした、越谷市弥栄町の枝窪初江さん(93)が自分史「ひとすじの道〜思い出草を摘みながら〜」(奥三河同人社、A5版、230n)を自費出版した。枝窪さんが10年にわたり書きためたものをまとめたもので、早くに夫を亡くし、女手ひとつで3人の子どもを育てただけでなく、丸山記念病院(さいたま市岩槻区)の産婦人科婦長を務めるなど「医療人」として、地域医療に活躍した生き様を淡々とテンポの良い文章でまとめた。枝窪さんは「(人生は)悲しみや苦しみばかりではなく、時には喜びも楽しみも味わいながら、『どうにかなるだろう』と歩いてきました。くよくよしないのは私の天性。その『思い出草』を摘みながら書きました」と自分史を綴ったという。

 枝窪さんは1919年(大正8)4月に茨城県西茨城郡北那珂村(現在の桜川市)に生まれた。1923年の4歳のときに関東大震災に被災し、「誰かの背中におんぶされて、近くの竹やぶに逃げた記憶がある」(枝窪さん)。小学校2年生のときに父親が40歳で急死し、父親の「これからの女性は職業を持ったほうがいい」との教えを胸に上京。1937年、18歳で慈恵医科大学看護婦学校に入学。厳しい寄宿舎生活で勉強に励む。
 1940年に助産師・看護婦の資格を取って卒業後、板橋にあった陸軍造幣廠付属病院に軍属として勤務したのが助産師・看護師生活の始まりだ。同病院の技官として働いていた枝窪仲治さんと知り合い、1943年に結婚。当時は戦時下、東京は連日の空襲。翌年に夫の実家のある埼玉県名栗村に移住した。そこで村唯一の医療機関・名栗村立診療所に勤務することになった。助産師、主婦と子育てに忙殺される日々が続く中、夫ががんに倒れ、1963年に45歳の若さで亡くなった。
 当時、大学1年生、中学校2年生の娘と小学3年生の息子の3人の子育て中で、悲しみに打ちひしがれる間もなく、20年以上の助産師・看護師の働きぶりが評価され、勤務する診療所の医師の紹介で、1969年に岩槻市の丸山記念病院に勤務することになった。「当時はベビーブームの後半で、その忙しさは想像を絶していた。1か月で多いときで186人も出産に立ち会い、不眠不休のような生活でした」と枝窪さんは当時を振り返る。
 1972年には、日中友好協会から看護婦友好訪中団の一員になってほしいと打診され、悩んだ末、当時の故・丸山正義院長に相談したところ、気持ちよく「行って来いよ」と言われ、全国から選抜された10人のうち埼玉県からただ一人の看護師として訪中した。日中国交正常化の直後であり、3週間にわたり、中国各地の医療機関・施設を見学し、特に中国特有のハリ麻酔などの治療法を研究してきた。
 産婦人科婦長、副総婦長のほか、大宮市医師会高等看護学院の講師を務めるなど後進の指導にも力を入れ、1980年には県衛生功労者として県知事賞を受賞するなど医療人としての地位を築きあげた。1991年、72歳で丸山記念病院を退職した。
 退職後は以前からやってみたかった水彩画を描いたり、文章も書きたかったので、近くの越谷市老人福祉センター・くすのき荘にでかけ、自分史教室に参加したのが、今回の出版のきっかけとなった。「文章を書いていると、昔を思い出します」と当時を振り返る記憶力は人並み外れており、400字詰め原稿用紙に100枚以上もの「自分史原稿」を10年にわたり書き続けた。「淡々と客観的に書くことがモットー」と枝窪さん。丸山記念病院時代の看護師の後輩の弟が出版社を経営していることを知り、今回、自費で出版することになった。出版にあたり、出版社の編集者が原稿をまとめ、加筆・訂正を加えて編集し直して、1冊の本にした。編集者の一人は「93歳にもなる女性が本を出版するのは極めて珍しいし、文章力にも脱帽です」と評価する。
 病院退職後もパートの看護師として80歳まで仕事を続けた枝窪さん。約60年間にわたり、医療に携わってきた。今は水彩画やパッチワークなどの趣味のほか、新聞を隅から隅まで読むのが日課。足腰は弱くなったが、散歩にも出かけ、心身ともに元気だ。枝窪さんは「この道一筋に過ごした60年間の話題を中心にまとめました。まだまだ書き足りないこともあります。私が何とか人並みに生きてこられたのは、多くの方の力添えがあったから。あらためて感謝したい」と話していた。
 同本は希望があれば販売もできるという。
 <問い合わせ>奥三河同人社TEL0536・36・0025。

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