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「越谷の七不思議」選ぼう・越谷市郷土研究会が年内に

2013.1.7(越谷市)
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 地域の歴史に少しでも興味を持ってほしいと、越谷市郷土研究会(宮川進会長)は「七福神」ならぬ「越谷の七不思議」を設定して、市民に巡り歩いてもらおうと、準備を進めている。いわゆる市内の「ミステリースポット」で現在11か所の候補を挙げた。これを年内に市民アンケートか、同研究会会員や理事らの投票で選択するかの方法を選び、7か所に絞り、市民に公表し案内する計画だ。宮川会長(73)は「越谷には蒲生のぎょうだいさまなど、不思議なスポットが多数あります。ミステリーゾーンとして、市民や市外の方に歴史にふれるきっかけになれば」と期待している。

 越谷市には「七福神」がなく、市民が歴史散歩できるコースがない。そのため、同研究会では「無理やりつくるのではなく、実際に市内に存在するもの、目に見えるものを選択し、なおかつミステリアスなものを選ぶことにしました。以前から、歴史やいわれのはっきりしないものやユニークなものが市内に点在していたので、これらをあらためて、七不思議として設定したい」と昨年夏ごろから準備を始め、11月には候補の11か所を巡る1日ツアーを実施した。
 同研究会が選んだミステリースポットは蒲生の「ぎょうだいさま」や相模町の「大聖寺の卍亀碑」、越ヶ谷本町の会田金物店にある不思議な壁画、向畑の陣屋跡など11か所に及ぶ。場所は東西南北広くに分布し、市内を一周できるため、歴史探訪ツアーにも適しているという。同研究会で昨年11月に実際に回ったところ、「すべて1日で回るには距離があるので、車を使用するしかないが、何回かに分ければ歩いて巡ることも可能」と宮川会長。
 現在、11の候補地があるため、これらを市民に公表し、7つを選んで投票してもらうか、同会会員と理事だけで投票するかのどちらかの方法で、年内にも「7不思議」として、広く市民に告知していく考えだ。宮川会長は「どの候補地も、なぜ、そこにあるのか、など歴史的に謎の多いものばかり。市民に歴史に興味を持ってもらう、きっかけになれば、うれしい」と宮川さんは話している。
 七不思議の候補は別掲の通り。
 <問い合わせ>越谷郷土研究会の宮川会長TEL975・9139。

 ◆ぎょうだいさま(蒲生茶屋通り)
 カエルか河童か、はたまた鳥か。蒲生一里塚から本町交差点にかかる旧日光街道は、かつて茶屋が軒を並べていたという。その蒲生1丁目の街道わきの草履が下がった祠の中、鳥のような河童のような不思議な形の石の塔がたっている。1757年(宝暦2)に建立されたという「砂利道供養」である。旅人の道中安全を願った「わらじ」が吊るされ、無事に帰る(蛙)を祈願したといわれる。地元では昔から、親しみを込めて「ぎょうだいさま(わしの神様)」と呼んでいる。
 ◆大聖寺の亀の石碑(相模町)
 奈良時代の750年(天宝勝宝2)に創建された大相模不動尊。その一角に高さ3・2b、幅1・52b、幅1・52b、厚さ1・6bもある亀の甲羅のような石碑が建つ。この地は「良弁塚」と呼ばれ、大相模不動坊を開いたとされる、華厳宗第二祖の良弁僧正と縁を結ぶ。東大寺大仏造立に尽力し、初代別当となった良弁は、2歳のころ大鷲にさらわれ、東大寺境内の杉の枝に置かれた。たまたま通りかかった信者が助け、育てたとの伝説が残る。石碑の字は判読しにくいが、良弁が行脚の折、大相模に休憩。「有縁の地なるべき」として、本尊を開いたそうだ。碑の冒頭に「鶴」の字があり、後部に「亀」らしい字があるために亀碑と呼ぶ。
 ◆会田金物店の壁画(越ヶ谷本町)
 旧日光街道沿いの老舗「会田金物店」。時代を感じさせる木造建築の店内に不思議な壁画が目に留まる。鉄砲を手に戦う兵隊だろうか、武士だろうか。落書きなのか写実なのかも不明な絵であり、戊辰戦争を描いた絵と推定するには無理がある。新撰組の近藤勇が現在の流山市で、任意同行を求められ、都内の板橋まで連行された。その途中、会田家に泊まったとの話も伝えられる。幕末、明治、大正へと「会田金物店」は幾度となく家主が変わっているほか、近藤勇連行の行路も春日部、越谷経由の両説があり、定かではない。歴史の謎に包まれた「会田金物店」なのである。
 ◆久伊豆神社本殿裏の力石(越ヶ谷)
 平安末期創建の久伊豆神社。拝殿の向かい右側に、台座に鎮座したタマゴ形の石。重さ187・5`、「天保2年4月吉日、三ノ宮卯之助がこれを持つ」と刻まれる。そして、本殿後ろに無造作に転がっている謎の石がある。卯之助は諸国を興行し、江戸深川・八幡宮や鎌倉・鶴岡八幡宮、信州の諏訪神社などにも卯之助の名を刻んだ力石はあるが、この本殿後ろに転がされた石は、はたして卯之助とどんな因縁をもつのか、推測が推測を広げている。

 ◆白山神社の願掛け石塔(増林)
 白山神社は毎年1月20日に地元の氏子によって「白山おびしゃ」が行われている。かつては、歯の病を治す神様として盛んに信仰された。この神社境内に、ひっそりと願掛け奉納石塔が建っている。老夫婦が向き合って願い事がかなえられるようにと拝んでいる様子が描かれたもので、拝み絵馬の形式をとっている。信州の道端に道祖神として、夫婦が描かれているが、越谷で見られるのは珍しい。
 ◆向畑の陣屋跡(向畑)
 遺構なき城跡に戦国の伝説が。古利根川がくねくねと折れ曲がる新方集落の堆積地に1505年(永正元年)新方の領主・八条惟茂が設けた城砦。戦国時代の1590年(天正18)まで存在し、豊臣秀吉の小田原城攻めと時を同じく廃城となったとされるが、正式な記録はない。砦のなごりもとどめておらず、陣屋跡とするには謎が多い。
 ◆向畑の藤原様(向畑)
 古利根川右岸堤防から400bの祠の中にひっそりと板碑が佇んでいる。高さ93a、幅33a、奥行き30aの板碑には1830年(文政13年)3月建立と刻まれ、台座に16人の名前が記されており、当時、石橋を築造した際の犠牲者を供養したものらしい。この地には戦国の世、「向畑城」(別名・新方氏館)があったと伝えられ、なぜ、昔から地元で、この祠を「藤原様」と呼んだのかは、わからない。謎に満ちた祠なのである。
 ◆聖徳寺の塩地蔵(北川崎)
 聖徳寺参道に「塩地蔵」と呼ばれる石仏がある。安産や子育ての地蔵として塩の奉納を通して信仰されている。この石仏の摩耗がかなり激しいため像容が不明であるが、右手に宝珠、左手に杖を持った地蔵菩薩像と思われる。この地蔵尊の石仏は梅雨の季節に地蔵の表面に塩分が吹き出てくるといわれている。また、この地蔵尊には聖徳太子に関する次のような言い伝えが残っている。「聖徳太子が蘇我馬子とともに、蘇我氏の敵である物部守屋を攻め滅ぼした。ところが討たれた守屋は実は地蔵の化身であった。このことを知った聖徳太子は守屋の供養のためにこの地蔵を製作した」という。
 ◆三野宮新田の土公神(三野宮)
 三野宮の榎本家そばに「土公神(どこうじん)」と刻まれた文字塔がある。石塔で1853年(嘉永5年)と書かれている。「土公神」とは陰陽道で、土をつかさどる神。土公(どこう)ともいう。この神が土中にいる時期に、例えば春はカマドに、夏は門に、秋は井に、冬は庭にいて、その場所を動かせば祟りがあるという。また、この神の遊行の方角に向かって土木工事を行うことも忌む。かまどの神ともされている。
 ◆小曽川の烏八臼(小曽川)
 小曽川の中島家そばの共同墓地に「烏八臼(うはっきゅう)」と刻まれた墓塔がある。この石碑は1698年(元禄11年)建立と書かれている。この「烏八臼」という文字は墓塔表面上部に刻まれ、室町末期から江戸時代中ごろまで、主に曹洞宗の墓塔に全国的に見られたという。意味は不明だ。小曽川のほか、野島の浄山寺、増林の勝林寺にも同様の墓塔がある。
 ◆中新田稲荷神社の「菅原荘」の石碑(新川町)
 新川町の老人福祉センター・けやき荘の西側そばにある稲荷神社に「菅原荘」と書かれた文字塔がある。「菅原」とは学問の神様、菅公の領地とされる場所か。地元では親しみを込めて「妙観照」とか「妙観照稲荷」と呼ばれている。困ったときに、このあたりの開発者の会田左衛門政重公に頼む気持ちで、彼の法名である「観照」をとって名付けたものであろう。1850年(嘉永3年)の建立とされる。
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